原文
太上皇徙長安、居深宮、悽愴不樂。高祖竊因左右問其故、以平生所好、皆屠販少年、酤酒賣餅、鬭鷄蹴踘、以此為懽、今皆無此、故以不樂。高祖乃作新豐、移諸故人實之、太上皇乃悅。故新豐多無賴、無衣冠子弟故也。高祖少時、常祭枌榆之社。及移新豐、亦還立焉。高帝既作新豐、并移舊社、衢巷棟宇、物色惟舊。士女老幼、相攜路首、各知其室。放犬羊鷄鴨於通塗、亦競識其家。其匠人胡寬所營也。移者皆悅其似而德之、故競加賞贈、月餘、致累百金。
書き下し
太上皇長安に徙り、深宮に居りて、悽愴として樂しま不。高祖竊かに左右に因りて其の故を問うに、平生を以て好む所、皆な屠販の少年、酒を酤り餅を賣り、鬭鷄蹴踘、此を以て懽びと為すも、今皆な此れ無し、故に以て樂ま不と。高祖乃ち新豐を作り、諸の故ある人を移して之を實たせば、太上皇乃ち悅ぶ。故に新豐無賴多く、衣冠無き子弟の故る也。高祖少き時、常に枌榆之社を祭る。新豐に移すに及び、亦た還りて立て焉。高帝既に新豐を作るに、并せて舊社を移し、衢巷棟宇、物色惟だ舊のままなり。士女老幼、路首に相い攜え、各の其の室を知る。犬を放ち羊鷄鴨塗を通る於、亦た競いて其の家を識すは、其の匠人の胡に寬ぎ營む所也。移る者皆な其の似たるを悅び而之を德とし、故に加うを競いて賞し贈れば、月餘にして、百金を累ぬるに致る。
現代語訳
(前漢の)高祖(劉邦)の父親が新都長安に引っ越し、幾重にも建てられた御殿の奥深くに住まうようになると、まるで凍えるように弱りだした。心配した高祖が父親に内緒で、家臣達に理由を探らせると、父親はこう語ったという。
「ワシが長い間なじんだのは、肉屋のせがれや酒売りせんべい売りどもで、みんなで闘鶏や蹴鞠にバクチを張って、楽しく過ごしていたというに、ここにはもの売りも来ぬ。バクチも出来ぬ。このままではおっ死んじまうわ。」
そこで高祖は故郷の街、豊をまねて、長安城近郊に新豊のまちを作り、豊の住人を呼び寄せて、新豊に住まわせた。すると父親は大喜びした。だから今でも新豊と言えば、札付きの悪たれどもの巣窟で、ろくに礼服も着たことが無い不良少年が、そのまま年老いている。
高祖は若い頃、故郷豊邑の枌楡の鎮守様にはお賽銭を出していたが、新豊を作った際も、鎮守様を移してお祭りした。新豊のまちが出来上がると、まちの寄り合い組織もそのまま移し、横町や建物ひっくるめて、ことごとく同じに作り上げた。
連れてこられた豊邑の老若男女は、新豊に着くと手を取り合ってぞろぞろと歩き、あてがわれた家に落ち着いた。さらに放し飼いの犬、羊・鶏・あひるが道を行き交い、ごった返しながらそれぞれ飼い主の元に向かった先には、大工や指物師があぐらを掻いて小屋を作っていた。
移り住んだ住人は、全てが元のままなのを大いに喜び、さすがは皇帝陛下じゃとその力を讃えた。高祖も気を良くしてご苦労賃やお駄賃をばらまいたので、ひと月過ぎる頃には一人当たり、百金を超えるありさまだった。
訳注
悽愴:身にしみるようにわびしい。寒さがひどく身にしむさま。
屠販:牛・羊などを殺し肉を売る。また、その人。
新豊:もと秦の驪邑。この記事が示す出来事は漢の高祖(劉邦)七年(BC200)のこと。新豊は都知事に当たる京兆尹が管轄し、現在の陝西省西安市臨潼区付近にあったという。
枌榆:にれの木。漢の高祖の郷里が沛県の豊邑の枌楡であったことから、郷里の意。
衢巷:ちまた。まち。▽「巷」は、裏通りの小さな道。
棟宇:家のむねと、のき。「棟宇相連延=棟宇相ひ連延す」〔白居易・傷宅〕家。建物。